最近の車に魅力が少ないのかというお話を先日しましたが
今回もその類のお話を。
突然ですがここでは「魅力」を「個性」だと強引に仮定してみます。
だって無個性な、判で押したような車に魅力はないですよね。
じゃあ車の個性とは何か?
色々あると思いますが、特にデザイン、乗り味、音などなど、どちらかと言うと感覚的な部分に該当すると思います。
こんなことを言うと懐古厨だと思われるかもしれませんが
その種の「個性」は現代よりも、過去、80年代以前の車の方が持ち合わせていたような気がします。
例えば今のBMWの5とE34辺りの5、或いは今のベンツとW124辺りのベンツ
今の911と964や930の頃の911、或いは今のRX8とFCやSA22Cといったセブン
更に今のブレラとジュリエッタの頃のアルファ、今のロータスヨーロッパと昔のヨーロッパ
…どっちが「個性的」で「味」があるでしょうか。
間違いなく昔ですよ。
そして非常に強引だと重々認識してますが、私は「個性」とは「技術的に未熟である」ことから主として生じるものだと思います。
また「コスト」という物にも深く関連性があるでしょう。オーバークオリティってやつですね。
例えば
F1やツーリングカーレース直系のエンジンを普通のセダンに積んだり(BMWのM6やM5やM3)
ル・マンやCカーと共有部品だらけのエンジンを積んだり(ポルシェ911)
こんなことは現代では絶対に有り得ません。不可能です。
アウディのS8辺りのエンジンがR10のディーゼルと共通とか、トヨタのセル塩(レクサスLS)にTF107のエンジンが載るとか有り得ないでしょう。(ポルシェはGT3でやってますがね)
しかし、それが昔、それもほんの20年前までは普通にあったわけです。
技術的に未熟ゆえにマージンが多くあり汎用性も生まれ、或いはコスト意識の低さゆえにそれらが成り立っていたわけです。
では何故、技術的な未熟さが、個性を生むのか。「差」を生むのか。
登山に例えると分かり易いかもしれません。
例えば富士山に登るとします。富士山という(技術的)目標を制覇するに際して、静岡側から登ることもできるでしょうし、山梨側から登ることも出来ますよね。
また人間は個人で見ると能力の差は著しいですが、集団で見るとそれほど差は生じないと言われます。
つまり、静岡組も山梨組も、(技術レベル的)高さは変わらないわけです、が、しかし。高さは同じでも、居る位置は全く違いますよね。山の表と裏なんですから。
同じくらいの性能なのに、表と裏ほどの「違い」即ち「個性」が生まれる。
この差は、標高が低い(技術的レベルが低い)ほど大きいですよね。
そしてこの理屈で考えると現在の車たちの無個性化の理由も見えてきます。
…と言うのも現在の自動車に関わる技術は、ほぼ極まっているのではないでしょうか??
再び登山に例えると、もう頂上目前なわけです。頂上付近になれば静岡側も山梨側も関係無いですよね。
「高さ」も「位置」も、ほとんど変わらない、ほとんど同じ。
技術の収斂が、結果的に文字通り同じところに行き着くという理屈です。
もちろん、環境対策やその他諸々に自動車業界の中の人達が、今この時も死ぬ思いで開発をしているのは存じてますし、各種新技術も確実に生み出されているのも諸々の媒体で拝読してます。
ただ総じて言えば、完成の域に達していると言えるのではないでしょうか。
それ故に差はあっても、目に見えて違う…とまではいかないと。
結果、無個性…のように見えてしまう。
例えばVTECとVVTiとダブルバノスとヴァリオカム。同じに見える可変バルタイであっても本当は全部違いますが、それが個性とまで呼べますか?
技術者さんたちにとっては堪らないでしょう。違う。全然違う一緒にするな、と。
上の例ならホンダさんは絶対そう言うでしょう。他は全部うちのパクリじゃねーかと。確かに、プロセスは全く違います。そこは個性に溢れてますが、しかし結果はそうじゃなくなってしまう。
どう足掻いてもそこに行き着きます。
では、今のような無個性な車から、再び車に個性を取り戻すにはどうすればいいのか?
新しい山を見つけるしかないと思います。
技術的個性は、新しい山が見つかれば必ず生まれます。
例えばガソリンエンジンにかわるエンジン開発。でかいですよね。巨大な山です。
トヨタを筆頭とする燃料電池派
BMWやマツダのような水素派
全く違います。そこには個性が生まれる要素が数限りなくある。
そこに山があるから登るのと同様、そこに技術的課題があるから試行錯誤する。技術者の人達には、是非にも、新しい山で個性を光らせて欲しい。本当にそう強く願います。
…無個性均一化の問題には、技術的側面とは違う面のお話もございますが長くなりましたのでそれはまた明日。