石見銀山が世界遺産登録をされた際に、歴史をある切り口から横断して眺めてみることの重要性と面白さのお話をした記憶があります。あの時は「音楽」という切り口だったと思いますが、ここ数年の私はご覧のようにカメラにはまってすっ転びました。
カメラを趣味にしますと「光と影」そして「構図」という物に拘らざるを得なくなります。そしてその道の偉大なる先達は、と見渡してみますと、どうしても西洋絵画、特にルネサンス期からバロック。そして印象派の各巨匠の足跡を自然と辿るようになります。
ダ・ヴィンチの筆から始まった「闇」の表現。それを鬼才カラヴァッジョが異常なまでに劇的に昇華させ、ラ・トゥール、レンブラント、ベラスケスらを経てフェルメールが完成させる西洋絵画史上の光と闇の相克の歴史。そして印象派に至って、遂にキャンバスから闇が放逐される光の勝利の物語。
絵画に限らず西洋芸術はどうしても「キリスト教」と深い結びつきがあります。教会が最大のパトロンだったというミもフタも無い事情もありますが、西洋人の精神の最も深い所にキリスト教的な諸々があったわけですから、その桎梏からはそう簡単に逃れられなかった、と捉えるべきでしょう。
ただ、キリスト教的テーマから離れれば離れるほど、「闇」ではなく「光」が強くなる、というのが何とも興味深いです。
一方、構図の話となると、俄然印象派の絵が面白いです。それまでタブー視されていたような、あるいは西洋絵画的な発想とはかけ離れた表現が次から次に出てきます。しかしそれが生まれた背景には、皆さんご存知のように、日本の浮世絵があるわけですね。
例えば。これは最も有名な例えですが、マネの絵に「笛を吹く少年」というものがあります。
現代の我々から見れば、何が革新的でタブーを打破した作品なのかサッパリ分かりませんが、このように「背景が無い」ということは、当時の西洋絵画的には革命だったんです。そして、この表現の大本にあるのが浮世絵。
喜多川歌麿の大首絵(モデルの顔をアップにして背景無し)にあります。で、何故歌麿が大首絵に取り組んだのか。
そこには、一切の華美を禁じた松平定信の寛政の改革があります。装飾過剰な浮世絵を否定された歌麿と版元の蔦谷重三郎が繰り出した逆転の発想、それが大首絵でした。
寛政の改革が回りまわって、西洋絵画を革新させる。
こういうのが歴史を知る醍醐味。最も面白いところではないでしょうか。
カメラから始まって、西洋絵画を通って最終的に浮世絵に帰る。訳が分かりませんがそういう楽しみ方も有りかもしれません。
しかし、歴史とその背景と繋がりを理解するのは大変面白いのですが、その知識がさっぱりカメラの腕に結びつかないのはどういうわけか。
まぁなんだ。頑張りましょう。
※上段で触れた、西洋絵画における光と闇の歴史は
「フェルメールの光とラ・トゥールの焔」
という本が非常に分かりやすく面白いです。是非お勧め。